shhGarageの記録
みなさま。
私が運営に携わっておりましたアナログレコードロックバーshhGarageが、先日をもって終了することになりました。長らく多くの方にご愛顧いただきながら、しかし、この結論や経緯についてご説明する機会もなかなかないものですから、この場に自分の備忘録も兼ねて残しておきたいと思います。
長いです、が、私的記録ってことでそこは気にしないでください。また、あくまでも私の視点から切り取った歴史であり、関わった人たちそれぞれの視点で捉えると、異なる見え方やサイドストーリーが多数存在していることでしょう。それはそういうものだと思っておりますので、そのつもりでお読みください。
3時代の歴史
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ガレージの歴史は大きく3つの時代に分類されます。都内某所時代が前期後期に分けて語られたり、渋谷も数フェーズある説もあります。
都内某所時代
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開催期間:22ヶ月
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開催回数:124回
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来場人数:1,435人(平均12人/回)
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都内某所の民家の車庫(つまりガレージ)を改造して開始。改造といっても、木箱をひっくり返した机と折りたたみ椅子、それにターンテーブル一式を置いただけ。近所のコンビニで調達した酒を持ち寄り、「レコードを聴きながら数名で話し合う会」としてスタート。
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やがて、参加者も開催頻度も増え続け、「定期開催されるホームパーティー」として定着。
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途中で私設クラファンし、スポンサーを募ってトイレ&エアコンを設置するなどの進化も。常連の方に施工業社さんを紹介してもらったりもしました。それまでは、最寄りの公園か、近所のコンビニでつまみなどを買うついでに用を足してきてもらうスタイルであった。おのずと、「トイレが近くなると退散する」サイクルができ、程良い回転率が保たれていたが、トイレが設置されたことによってエンドレス化したり、トイレで寝込んで出てこない者が現れるなどの弊害も。
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今思えば、エアコンがない時代はどうやって凌いでいたのだろうか。。冬場は、「ダウンジャケット+靴底に貼るホッカイロ」を常備。ブレーカーが落ちない程度の電熱機器を持ち込み、しかしそれはなるべく来客の足元に向けるなどして、ギリギリの状態でしのいでいたと思われる。何やってたんだ。。
五反田時代
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開催期間:12ヶ月
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開催回数:90回
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来場人数:1,543人(平均17人/回)
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都内某所での運営がホームパーティーの域を超え、諸々のキャパシティ的に限界を迎えつつあった頃。某ノオトの宮脇さんが、「コワーキングスペースの延長としてコワーキングスナックを立ち上げたい」と言う構想を語り始める。そこからの過程はいろいろありましたが、流れに乗って、週2日はロックバーとして共同運営することで合意。五反田に拠点を移します。まだ、五反田ヒルズと呼ばれ始める前の時代ですな。
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我々は運営ノウハウ&集客力を提供し、場所は提供いただくという分担でして。ボランティア運営スタッフとして参加するという座組みでありました。
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今思えば贅沢だったんだが、とだかから食事を取り寄せできる仕組みなども。牛ご飯、美味かったなぁ。当時、人気急上昇中だったとだかさん。お世話になりました。
渋谷時代
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開催期間:32ヶ月
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開催回数:496回
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来場人数:6,485人(平均13人/回)
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五反田で運用して丸一年。連日満席の日が続き、キャパ的にも収まりきらなくなってきたことなどから、いよいよ自立を考えようという話に。自分たちで物件を借り、営業許可を取るなどして、店舗としてのオープンを目指すことにします。
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と言うことで、クラウドファンディングを実施。183人の方から5,125,000円の支援をいただき開店にこぎつけました。当時はまだ飲食店として資金集めに成功している案件が多くなく。先行してクラファン成功した方々にヒアリングしにいくなど、丁寧に先行事例を調査したりもしたなぁ。支援してくれた皆様、ありがとうございました。
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並行して、物件探しや運営の器としての法人設立も。ちなみに私はSansanから独立した頃でもあって、タイミングよく本業(の一つ)として運営に着手できるようになった時期でもあります。(Sansanは複業NGなんで、それまでのホームパーティーの延長でのプレイはギリ許容と言う感じだったわけですが、まぁそれでも目を顰めて眺めていた人もいたことでしょう。その懸念が無くなったのはすっきり、でした。)
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物件探しはそれなりに苦労しまして。数件の候補にエントリーしたものの、何回か審査で断られるなどを経て。最終的に落ち着いた物件では、事業計画プレゼンを作って大家に提出するなど、万全の態勢で臨み、無事審査通過した次第です。
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入居した物件は雑居ビル最上階でエレベーターなし。なぜか謎のメゾネットが付いており、ちょっと持て余す(そして家賃もその分高い)のだが、駅から徒歩数分と言う条件に惹かれ入居を決断。最終判断前には、我々の前に入居していたマッサージ屋に客として訪問し、施術を受けながら店内のレイアウトを確認するなどの調査も行いました。ちなみに、一見するとエロチックなマッサージ屋かとおもいきや、ゴリゴリのツボ押し系で、恰幅の良い韓国人女性が全体重を乗せて体を押しまくるだけのなかなか雑なプレイを60分耐え続けたのは良い思い出です。
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他にも、友人のオフィスから什器をどっさり譲り受けたり、夏の暑い時期に何度も荷物を担いで、エレベーター無しの雑居ビル4階に搬入するなど。
- 物件は、先述の通りメインフロアとは別にメゾネット的なセカンドフロアがセットになった仕様でした。ポジティブに考えればバックヤードとして在庫を置いたり、事務所として仕事をするスペースにもなりそうである。VIPルーム的に仕立てることも可能であったが、オペレーション的に回らないだろうってのと、目が届かない部屋を作るのはリスクしか想定できないので却下でした。
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そんなこんなでオープンしたわけですが、その時期の雰囲気とか、スタンスはこちらの記事によくまとまってます。高校同期生が運営責任者をやっており、しかもガレージ常連のハマーこと荒濱さんがライターとして関わっている媒体で。我々のスペースの存在は早々に運営チームの耳に届き、ハマーが取材してくれたんだよね。ほんとありがとうございました。
総じて
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開催期間:66ヶ月
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開催回数:710回
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来場人数:9,463人(平均13人/回)
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手元の記録をもとに算出してますが、、めちゃざっくりです。
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こんだけやったのかという、、参考までに。
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事件や思い出たち
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各時代の概要と言いますか、拠点が始まったきっかけを遡ってみると前述のような感じですかね。で、各時代ではいろいろな事件やら思い出やらがてんこ盛りなんですが、挙げていくとキリがないですね。
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度重なる模様替えとDIY、刺身パーティー、日本酒会、佐久間さん追悼イベント、トイレ&エアコンクラファン、謎の
KPOPDJイベント台湾、沖縄含めたアジアンPOPイベント(*ご本人からの指摘を踏まえ訂正いたします)、複業との懸念、オリジナルクラフトビール、そのビールのキャンペン提供、二毛作のトライと失敗、いくつかの取材、転職した人、飲み足りず次の店に繰り出す人たち(含む自分)、出資を受けた人、記憶をなくした人、トイレに籠る人たち、階段を担ぎ下される人たち、いろいろな出会いと別れ、地方出張先からかけつけ閉店と同時にまた出張先に引き返した夜、数々の事件、色々なイベントへの提供等々。 -
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この辺の数多のエピソードたちは、みなさんの思い出として心の中で温めつつ、たまに思い出したり話題にしたり、ネタによっては墓場まで持っていくなりしてもらえたらと思います。そして、たまに私と会う際に、そっと教えてください。
自分にとってどんな場だったのか
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さて、ここまではファクト。ここからは自分にとってどんな場だったのかを言葉にしてみよう。
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あの場にどんな想いを乗せていたかは人それぞれだし、僕も時期によって、いや日々その時々によって変わってました。答えは自分の中にしかない。ってことで振り返りを試みましたが、、けっこう難しい。仕事の環境も付き合う人々も取り組むプロジェクトも猛スピードで変遷してきたこの5、6年を、ガレージのことだけに焦点を当てて、かつリアリティをもって振り返るのはなかなか難易度が高い。
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そんな難しさを抱えながらも、、はっきり言えるのは「学びの場」だったということかな。
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ガレージをやる前も、勉強会やセミナー、イベントに参加したり、自分で主催することは多々あって、新しい出会いの機会には事欠かない感じでした。が、「自分が場を持ち」そこに「人が訪ねてくる」ってのは当時の自分には新鮮で。自分が予想し得ない人々が入れ替わり登場し、思いも掛けない組み合わせの「はじめまして」が想定以上に楽しげに盛り上がるのをリングサイドで眺め、時折その熱論の中に混ぜてもらって語らうのは、贅沢な時間でありました。これは自分にとって「学び」でありまして、知識とか情報を得るだけでなく、自分の知らない価値観、飲み方、怒り方、だらしなさ、、、勉強会やら仕事の場では見えない人々の振る舞いや人間臭さから垣間見ることのできる多様な世界観の広がりは、大きなインプットだったわけです。まあ、、運営している最中は冷静に人を観察する余裕もなく、喧騒や酒で揉みくちゃになっていましたから、スペースを閉じた後に、帰路に1人で夜空を見上げつつ1日を振り返りながら、「ああ、今日も色んな人がいたなぁ。」としみじみと振り返りつつ反芻することで、その学びを実感していたなぁ。
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あとは、時折発生する事件やらトラブルもしくは想定外の事象に対して、面食らいつつも、さてどう捌いていこうかなと頭を捻るシーンもまた「学び」でした。自分の価値観のキャパの狭さとか、持ってるカードの偏りなり少なさを実感させられるんですよねぇ。酔って機嫌がよくなってちょっと羽目を外した人たちが起こす規格外の出来事には。
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「学びの場」以外にも、「つながりの場」としても機能していたのは確かです。まあ、これは敢えて語らなくても良いかと思ったんですが、でも勘違いされないように記しておくと、僕は「誰かと誰かをつなげる」ことに興味はありませんで、、ただただ多くの人に会えたということがありがたかった、ということですかね。自分のつながりが広がっていくのがただただ楽しいからやっているわけで、「人をつなぐため」にやってる訳じゃないぞ、ってことです。
負荷と気づき
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ストレスだったことと、それによって得たことについても書いておこう。
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まず体力面。開催する際は、深夜までオープンし、クロージングまで済ませたら朝近くになっている日もあったりして、それは負担でした。よく「昼も働いて、夜中も運営。いつ寝てるんですか?」と言われましたが、、もちろん寝てないわけがない。工夫して時間を捻出して睡眠時間を確保するようになりました。
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また、仕事で何かしたら滞りがあると「あんな活動しているからだろ」と後ろ指をさされがちなんで、、まあそれを意識してって訳ではないですが、仕事においてより成果を出そうととか、立ち振る舞いに気を付けねば、という緊張感にはつながっていたかもしれませんな。特にこの活動を仕事としてやっていなかった時代は、いまほど複業とかパラレルとか越境の大切さなどが語られていなかった時代でもあり、「よくわからんことやってる」という思いで眺めていた方もいたと思うんですよね。そんな声を気にしていたら新しいことはできないぜ、という想いはもちろんありましたが、かといっていざそんな声と向き合うことになる局面では、無視する訳にもいきませんから、「なるほどですね」と相手にしないといけない場面も少なからずありました。
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また、気付くと「今、誰が、場を作っているのか」にも敏感になっていました。これは、場をコーディネートせねばならないという想いと、自分にとって居心地良い空間にしたいという想いから生じていたと思うんですが。最初は思い通りにならない空間に対してストレスを感じることも多々あったんですよね。「オーナーシップを持てる状況」なのか、具体的には「自分の意志や意図を反映できる状況」なのかどうかとか、、「不快な状況を排除したい」とか。思い通りにならないことにストレスを感じるというのではなく、、そんな状況に適応できない自分に腹が立っていた感じです。が、やってるうちに、状況を味わいながら眺めることにも慣れて参りまして。自分なりのスタンスを見つけていったように思います。「場をコントロールしようとする」んじゃなくて、「起こっている状況を受け止めつつ、適度な距離感で捉え掴む」って感じ。なので、いつの間にか「誰がどうこの場に作用しているんだろう」と眺め楽しむスタンスになっておりました。そんな感じで、どうやったら自分も場も快適な空気感が生まれるだろうか、と模索する時間が続いておりました。
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また、自分の忙しさやテンションの高低にともない、ガレージに割くエネルギーにアップダウンがあることは、当初は悩みの種でした。初期は、1人欠けると成り立たないケースもあって、休むとか休まないとかいうレベルじゃなかったんですよね。やる、のみ。でも、少し軌道に乗り始めてペースがつかめてくると、「イベント登壇が終わり次第駆けつけるんで、ちょっと遅刻させてもらう」とか「出張と重なったのでお休みする」みたいなケースも増えてきたんですよね。「気張らず、無理のない範囲で」というつもりではいたけれど、「ガレージに行かず、ここに居て良かったんだっけ」と思う時もしばしば。イベントの二次会を早々に切り上げて「出勤」することもしょっちゅうだし、時には地方出張先から夜中だけ帰京し、また深夜のうちに出張先に戻るなどの強行スケジュールを敢行したことも。やがて、肩の力も抜け「出られるときに出る」「誰も立てなければ休む」といった距離感に落ち着いて行くのですが。でもこれは最後まで消化しきれなかったなぁ。。コミュニティオーガナイジングのメソッドによれば、「いろんな事情や立場のメンバーで構成される組織」においては、「様々な参加の仕方を受け入れよう。たとえば、突然の欠席や関与度合いのアップダウンも許容し、またそのルールを明文化してチーム内共有しよう(意訳)」という考え方があるようで。頭では分かっていたけど、なかなか自分で自分にインストールしきれていなかったなぁというのが反省点であります。(これの学びは、今後関わるプロジェクトなどで活かそうと思ってる)
謝辞
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つらつら書き連ねたような経験は、1人では得られなかったわけで。一緒に運営してきたメンバーや、要所要所で支援してくれた方々、クラファンしてくれたり遊びに来てくれたみんな、運営を支えてくれたビジネスパートナーのみなさまなど、、多くの人との関わりがあって成り立っていたのだなぁ、とあらためて思います。そこまで深く企図せぬまま走り続けていたのだが、振り返ってみたら多くの人との関係性が重なり合っていました。ありがたや。
今後
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長々振り返ってみて。こんな経験をもたらしてくれた場所が無くなったことをあらためて実感し。加えて、コロナ禍で人との交流スタイルが大幅に変わった数ヶ月を経て。色々思うこともあります。みんな雑談を求めてるし、呑んでくだらない話をしたいんだよねぇ。
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「場作りについてはしばらく休憩」と思ったりもしましたが。色々な制約を踏まえつつも、何かできないかと、、いくつか試行錯誤を開始しております。動きながら、いくつもの「これじゃない」感にぶちあたり、修正を繰り返しつつ。
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なので、、そのうち、場所や仲間、諸々のサポートのお願いをするかもしれません。その際はお声がけするのでよろしくお願いします。
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それじゃあまた!