•    

本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編 〜 気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.04>

日経COMEMO公式 note

2022年3月/WEB
【寄稿しました】

本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編
気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.04>

今の仕事観ができるきっかけになったネットとの出会いや、フリーランス仕事を始めた頃について書いてみましたよ。
プロジェクト型の働き方は当時から変わってなくて、今もよきプロジェクトと仲間を探し求めて徘徊しとります。


▼本文転載
いろいろな仕事に関わるあまり、自分の仕事を一言で表すのにいつも苦労する私。
前回に引き続き、しばらく「日比谷のキャリアをひたすら時系列で紹介する」シリーズにお付き合いいただければと思います。

そのまま参考にしていただくのが難しいキャリアなので、変にサマらず淡々とお伝えし、「この部分は参考になるかも」というところをピックアップしていただき、いかに「個人内多様性」を有するキャリアに至ったかを紐解く参考にしていただければという狙いです。

初回記事からの引用

さて、先日、中高生の夢として「好きなこと仕事に」がトップになったと報じられました。「好きを仕事に」の賛否は多く語られてますが、個人的には「どうせ努力したり学ぶための時間や力を注ぐのなら、興味のあることの方が長続きするし、辛い時でも踏ん張れる(可能性が高い)」派です。


ということで、今回はそんな仕事観が形成されるきっかけとなった「デジタル」との出会い編です。

■音楽と並行してPCやネットに手を伸ばす
学校の内外で趣味の音楽を掘り下げていた高校時代。この時期、胸中では「本格的なバンド活動は大学でやろう」という気持ちがなかったわけではないのですが、一方で、パソコンやネットの世界に没入し始めてもいました。
父親が半導体の研究者でITメーカー勤務だったこともあり、日比谷家はどちからといえばコンピュータに明るい環境であったと言えます。私自身、小学生の頃からパソコンに慣れ親しみ、学校に提出するレポートをワープロで作成したり、簡単なプログラムを書いてゲームを作ってみたり、いまにして思えば他愛のない用途ばかりでしたが、早いうちから下地は整っていました。
 

まだ残ってた当時の5inchフロッピー

当時の私には、1台の端末の中に広がっているポテンシャルがたまらなく魅力的で、それはまるで、自分だけの楽しい箱庭のようでした。何より、音楽制作もデジタルで行なえば、よりダークでディープな作品が創れるのではないかという期待がありました。

これが、私の将来を大きく左右します。

■最先端のデジタル環境を目当てにSFCへ
高校時代は音楽活動にかまけ、勉強は完全に二の次になっていた私。それでも、時期が来れば否が応でも進路について考えなければなりません。

中学から私立一貫校に籍を置いていた私ですが、だからといって無条件に大学まで進ませてもらえるわけではありません。勉強をサボってきたツケは、ちゃんとまわってきます。
その点、当時新設されて間もなかったSFC(湘南藤沢キャンパス)は、非常に魅力的でした。新設キャンパスであるがゆえに学内では不人気で、毎年、定員割れ続き。少々成績が悪くても、SFCなら楽に進めると言われていました。
 

当初ゼミに参加ようと目論んでた坂根さんの本。
と、当時NHKで放送された特集。ITとかネットなどの単語はなく「デジタル」だった。

おまけに最新の設備やネットワークなど、デジタルに対応した環境が整えられているのがSFCの売り。SFCへ行けば好きなだけパソコンやインターネットがいじれるに違いないという目算もありました。何から何まで私にとっては好都合。これが、私が迷わずSFCに進路を決めた理由です。

もっとも、いざ蓋を開けてみると意外と志望者が殺到し、あわやSFCからもはじき出されてしまうところだったのですが……、結局は「話が違う!」と集団交渉し、どうにか滑り込ませてもらうことができました。このあたりは内部進学生の甘さなのでしょうね。

■企業と学生の間で、パソコンまわりの「何でも屋」に
さて、とことん音楽をやるつもりでスタートした大学生活でしたが、待っていたのはパソコンにどっぷり浸かる日々でした。

もともと独学でプログラミングを楽しんでいたこともあり、授業の課題も友人の分までこっそりやってあげるほどの余裕ぶり。そのうち、腕を買われて教授から授業のアシスタントを命じられるようになりました。

また、当時はデジタルに明るい学生が外部の企業から仕事を受ける、自営業的なアルバイトが流行り始めていて、私の周囲にもそうしたベンチャーもどきのチームがいくつもありました。しかし彼らは、プログラミングは得意でも営業が苦手なことが多く、自然と私にお鉢が回ってくるようになります。
たとえば、当時多かったのがホームページの制作依頼で、私がいったん窓口になり、その仕事を学内のチームに振り分けるという役割を担っていたわけです。
 

当時流行ったダイアリー。
自作cgiで簡易CMS作ったり、掲示板作ったりしてたような。

また、「うちの会社もパソコンを入れたいので相談に乗ってほしい」との依頼があれば、予算に応じて秋葉原で買ってきたパーツでパソコンを組み立て、マージンをもらうこともありました。何でも屋的に間に入って、進行や条件を取りまとめる役どころは、今の立場に近いのかもしれません。

おかげで一般的な大学生がやるようなアルバイトをしたことは一度もありません。しかし、決してお金儲けが目的だったわけではなく、得意なデジタルを通してさまざまな企業と繋がりを持てることや、最先端の現場に参席できること、学内の仲間たちに仕事を回してちょっとした経済圏を構築できるのが、当時の私には何よりも楽しかったのです。

私の会社kipplesのクレドには「探究心から」を掲げてますが、「好奇心ドリブンで、楽しみながら根を伸ばす」ことをどんどんやろうという想いを込めております。学生当時の仕事の原動力は「稼ぎたい」よりは「好奇心」でしかなかったように記憶していますが、その頃も今も変わってないのかもしれません。


次回は大学時代に足を踏み入れたベンチャービジネス編(の予定)です。

▼日経COMEMO公式 note 記事ページ