モラトリアムだった私を、就職という選択肢に導いたある先達の言葉 〜 気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.06>

日経COMEMO公式 note

2022年6月/WEB
【寄稿しました】

モラトリアムだった私を、就職という選択肢に導いたある先達の言葉
気づいたら「個人内多様性」を獲得していた自分が、今までのキャリアでやってきたこと<vol.06>

キャリアの棚卸し編。
ようやく学生時代の話が終了。
当時関わったあんなプロジェクトやこんなプロジェクトの話は割愛で、なんで就職したのか、的な話を記しておくよ、と。


▼本文転載
いろいろな仕事に関わるあまり、自分の仕事を一言で表すのにいつも苦労する私。前回に引き続き、しばらく「日比谷のキャリアをひたすら時系列で紹介する」シリーズにお付き合いいただければと思います。

そのまま参考にしていただくのが難しいキャリアなので、変にサマらず淡々とお伝えし、「この部分は参考になるかも」というところをピックアップしていただき、いかに「個人内多様性」を有するキャリアに至ったかを紐解く参考にしていただければという狙いです。

コロナ禍もあいまって、昨今若年層の失業率が問題として注目されていますが。私が大学生を卒業する1999年は、有効求人倍率の底であり、今の時代の3分の1程度でした。


私は学生時代からフリーランスで仕事をしていたこともあり、まともに就職活動に向き合っていなかったのですが、最終的には大企業グループに就職することになりました。その変遷を振り返ってみようと思います。「モラトリアム卒業編」です。

■盛り上がりつつある業界にはいたが
プロマネ的な立場で仕事を切り盛りする醍醐味を知り、面白そうな案件には片っ端から首を突っ込んでいた大学時代。当初はインターネットというものに懐疑的な企業も多く、一部の感度の高い企業だけがこの分野に投資している状況でしたが、そのうち社会全体がインターネットの価値に気づき始めると、さらにウェブ業界は賑やかになっていきました。

おかげでデジタルに明るい学生のもとには仕事のオファーが絶えず、手を挙げれば面白い仕事が回ってくる状況は、私のような好奇心を原動力としていた人間にとって、非常に刺激的でした。

しかし、そんな学生時代も永遠に続くわけがなく、そのうち否が応でも卒業後の進路というテーマに直面することになります。

■嫌でも直面せざるを得ない進路という問題
正直に言えば、学生時代に将来について真面目に考えたことは、実はほとんどありませんでした。なぜなら、就職だけが唯一の選択肢であるとは私には思えず、学生時代におぼえたプロマネ的な立ち回りで日銭を稼ぐスタイルは、そのまま卒業後も続けられるのではないかと感じていたからです。

それでも、あるプロジェクトの打ち上げの席で、通信系の会社の方からこんな言葉をかけられたことが、私に方針転換を迫るひとつのきっかけになりました。

「――こういう仕事を今後も続けていくつもりなら、いつまでも“会社ごっこ”のままではダメだよ」

つまり、バイトの延長線上のものではなく、社会を知り、社会人として事業にあたらなければならない、という意味でしょう。

今となっては顔も名前も思い出せない人物の、何気ない言葉です。それでもこうして妙に記憶に焼き付いているのは、それまで会社に勤めるということをまったく想像できずにいた私に、幾ばくかの現実感をあたえてくれた言葉だったからなのでしょう。

■モラトリアムからの脱却
そこで、なんとなく頭に浮かんだ選択肢は、大きく3つ。モラトリアムを続行するのであれば、大学院へ進むのがベストでしょう。引き続きウェブの仕事をやるなら、自ら起業するのもいいでしょう。そのいずれでもないのであれば、他の大方の学生と同様に、就職活動をして企業に就職するしかありません。

しかし、少なくとも当初の私には、就職という選択肢はまったく存在していませんでした。というのも、当時の私は少し斜に構えたところがあり、就職という行為にそこはかとない違和感を持ってたからです。

まだリクナビのようなサービスもなく(*)、ネットで就活できる状況ではなかったこの時代は、就活の時期になると自宅に大きな箱で就職情報誌が届けられるのが一般的でした。学生時代の体験を鑑みれば、そんな企業社会にロマンを感じられようはずがありません。
(*)厳密には1996年2月からサービス開始していましたが登録企業数も多くなく、あくまでも「参考程度」でした。SFCの学生たちはこぞってwebから登録しまくっていたのを横目に見ていましたが。

何より、常に面白いこと、興味の惹かれるものの方向に進んできた私にとって、定められたレールの通りに進むのはいかにも性に合いません。大学院のプロジェクトを手伝ったり、声のかかるまま企業の仕事を手伝ったり、他団体からの声がけで仕事をするなどなど、選択肢を持たないフリーな状態でいたからこそ、目まぐるしく変化するインターネット黎明期に対応できたのであり、それがkipplesのクレドに設定している「領域を超える」という理念にも通じてもいます。

しかし、私がそうモヤモヤと考えている間も、他の学生たちは就活に励み、就職氷河期と言えども次々に内定を得ていきます。たいていの学生は3年生の夏ごろから就活をスタートしていますから、私は自覚のないまま大きく出遅れていたわけです。

そして、結論から言えばひとまずの進路を就職に定め、私が重い腰を上げたのは、4年生の春になってからのことでした。そんなものかと就活を始め、どうにかNTTソフトウェア(現・NTTテクノクロス)の二次募集に引っかかったことで、私の目線も次のステージに向き始めます。

次回は、仕事どっぷりの学生生活に、web界隈と同じくらい時間を費やした海外行き、、「バックパッカー編」(の予定)です。

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▼Vol.1〜Vol.5
第1回:「誘われ力」を磨いたバンド時代編
第2回:「仕掛け人」として「連帯感作り」に目覚めた学園祭編
第3回:音楽が未知の世界へ飛び込む楽しさを教えてくれた
第4回:本格的に「デジタル」に目覚めた大学時代編
第5回:ベンチャービジネスとの出会い編